輪廻転生の思想がヴェーダに登場するのは、紀元前8世紀から7世紀にかけてであるが、それが完成するのは「秘儀」を意味する『ウパニシャッド』においてである。五火説に二道説をつけ加えて説かれるが、五火説とは、死者は、次のプロセスをへてふたたび現世に帰還するという説である。
煙となって月世界のソーマ王のもとに赴く⇒雨とともに地上にくだる⇒
米や野菜などの食物となる⇒男性に食べられて精液となる⇒交合に
より子宮に入って胎児となる
もっとも、食物となったところで、運わるく動物の餌食になってしまうというリスクもあるが、この段階ではまだ善悪の基準によって選別されたり、その結果処遇を変えられたりするような発想には至っていない。ところが、この五火説が二道説とセットになると、少し様子が違ってくる。死後の霊魂がたどる道は祖道と神道のふたつに岐れて、祖道をたどる者はほぼ上記と同じプロセスをへてこの世に帰還するが、神道をたどる者はブラフマンのもとに到達してこれと一体となる。「梵我一如」がこれである。
このとき、祖道をとってふたたび人間世界に帰還するか、神道をへてブラフマンと一体化して永遠の生命を獲得するかは、古代インドの民衆にとって実に天と地ほどの違いだった。このことを現代の日本の若者に理解してもらうには少々説明を要する。
「宗教と社会」学会の調査によると、大学生ら3773人の52パーセントが「人間は生まれ変わり、死に変わりする」という輪廻転生を信じているそうである。なかにはかるーいノリで回答した連中もいただろうが、それにしても輪廻転生が意外に深く若者たちの間に浸透しているといえそうだ。
しかし、同じ調査を2世代ほどさかのぼって実施したとすれば、結果はよほど違っていたことだろう。生涯を水呑み百姓として消耗し尽くした祖父たちや、『女工哀史』を綴って倒れた祖母たちにしてみれば、「こんな惨めな人生など、二度とごめんだ」と答えたに違いないからである。一般庶民が人間らしい生活を送れるようになったのは戦後、それも高度成長期以降のことである。現代のパラサイト・シングルたちが生まれ変わることに抵抗を感じないのは、彼らがかっての王侯貴族をもしのぐ贅沢を満喫しているからである。このことを理解せずして、この調査がもつ意味を知ることはできない。
ましてや、それ以前の時代の「一切衆生」にとって、この世は「厭離」すべき「穢土」以外の何ものでもなかった。にもかかわらず「輪廻転生」が逃れえぬ宿命ならば、なんとか「浄土」に生まれ変わりたいと、必死で「欣求」しつづけたのである。