秋葉原の電気街とニューヨークのウォール街、はたまた西安の西市、ラージャグリハのバーザールと、市場にはそれぞれの業種や歴史と風土に応じた固有の趣があるが、「市場過程」という言葉が示すように、市場はその本質のおいて「流れ」である。たんなるモノに過ぎないものが、ひとたび流通過程に投げ込まれると、それは商品となって、市場という終わりなき奔流に身をまかせて流れていく。通常、その全過程は次のように表されている。
生産⇒貯蔵⇒輸送⇒売買⇒輸送⇒保管⇒消費⇒(再)生産
その連綿とつながる流れは、「生・住・異・滅の移りかはる実(まこと)の大事は、たけき河のみなぎり流るが如し。暫(しばし)も滞らず。ただちに行ひゆくものなり(『徒然草』)という、兼好法師の言葉の通りである。
ここで、市場におけるひとつの過程と、それにつながる次なる過程との関係に注目していただきたい。先の過程なくして後の過程はありえず、後の過程にとって先の過程は、それが生じる「原因」となる。しかも、その間には取引という「条件」がかならず介在する。この条件において一致しなければ、一連の流れはたちまち阻害されてしまう。つまり、取引を介して過程と過程が等価関係において結びついているのである。
安く買って高く売ることが利潤を生みだす基本原理であるにかかわらず、どうして取引が等価関係においておこなわれるのか? それは、それぞれの過程において、外部との間に新たな関係性を結び、結ばれることによって付加価値を生み出しているからである。
このとき、売買は相対取引としておこなわれ、一方の売りが他方にとっての買いとなる。つまり、取引における売り手と買い手の間には同時空間的な因果関係が成立する。ただし、市場においてひとたび成立した取引は不可逆であり、後の過程と先の過程との間には相依の関係は存在しない。
こうして、不断にネットワーク上を転変していく商品には、「これが〇〇だ」といい切れるようなたしかな実体は存在しない。形状、鮮度、名称、価格のいずれをとっても刻々変わるし、また変わらなければならない。ブランドや機能にあぐらをかいたその瞬間から、商品の陳腐化がはじまる。だから、いかなる一流ブランドやヒット商品といえども、流れのなかに、かりそめに成り
たっている存在にすぎない。だからこそ、商品開発や市場開拓に、またマーケティングにと、不断の「知慧」と「精進」が求められているのである。
断っておくが、これは「縁起」や「空」について述べているのではない。しかし、このように言えば、それらの思想がいかなる市場過程から生みだされてきたかについて解ってもらえるはずである。