縁起とは、なんとも不思議な思想ではある。「ものごとには、すべて原因がある」、もう少し敷衍していうと、「一切のものは種々の因(原因)や縁(条件)によって生じるという考え方(岩波『仏教辞典』)」である。よけい解らなくなったといわれるかも知れないが、それも当然なのである。縁起を理解する、「悟る」ことへの絶望から、後の大乗仏教運動が起こったからである。
だから、とりあえずは理屈でなく、例えによって理解するほかない。「ブッダ」は、われわれ自身の存在について、こんなことをいっている。
たとえば人が、この世界のなかの草や枝をとってきて、「これが私の母
である、これが私の母の母である」といいながら置いていくとせよ。しか
し、その人の母の母たちが終わらないうちに、この世界の草や枝は尽
きはててしまうであろう。 (『相応部経典』)
つづいて父について述べているが、自分を生み、育んでくれた父母、さらにその父母、さらに……とさかのぼっていくと、倍、倍と増えて、すぐに何千、何万という数に達する。つまり、「この自分は無数の祖先たちによって存在せしめられている」。
それはその通りだが、これは誤解を招きやすい表現である。というのは、父母からたしかに受けつぐのはせいぜいDNAくらい、その後の養育ということもあるが、逆にコインロッカー・ベイビーの例もあるからだ。
「お陰をこうむって生かされている」などとカンタンにいうが、お陰にもプラスもあればマイナスもある。およそ「種を蒔けば芽がでる」などというのは縁起の農民的理解であって、投資がむくわれないとか、取引で損失をこうむるなどは商人では常態である。それに、因や縁は人ばかりとはかぎらない。いま対向車線をこちらに向かって疾走してくる一台のクルマが、またその運転席の男がバーテンの制止を振り切って飲んだ最後の一杯のウイスキーが、あなたに決定的な破局をもたらすことになるやも知れないのである。
縁起とは客観的な法則であって、ブッダの独創になるものではない。それは、あたかもダーウィンが地球上の生物の諸相を観察することで「生物進化の法則」を発見したように、ブッダは現象世界の諸相を徹底的に観照することによって「縁起の法則」を見出したのである。
比丘たちよ、縁起とは何であるか。比丘たちよ、生によって老死があ
る。如来が出現しても、如来が出現しなくても、このことわりは確立して
おり、法として確立したこと、法として決定したことである。〔すなわち〕こ
れに縁ることである。 (『サンユッタ・ニカーヤ』)