谷川をのぼっていたひとりの漁師が、山の洞窟をくぐっていくと、突然眼の前がパッとひらけて美しい村にでた。桃の花が咲き乱れ、鶏の鳴き声がひびく里では、老人と子供が楽しげに歌い遊んでいる。日本人なら、いつかそんな村に還って死にたいと願う桃源郷は、古代アジアの村落共同体のよき面影を残している。ブッダもまた、「共同して行動し」「古老を敬い」「婦女・童女」をいつくしむ、村落共同体に懐旧の情を寄せていた(前掲『大パリニッ
バーナ経』)。しかし、そんな村むらは、やがて「打破」されることになる。
それを打破したものは、われわれにははじめから堕落と、つまり古代
氏族社会の単純な道徳的高みからの堕罪と思われるような諸影響
だった。新 しい、文明的な、階級社会をひらくものは、もっとも低劣な
利害関係―いやしい所有欲、獣的な享楽欲、けがらわしい吝嗇、共同
所有物の利己的 な略奪―である。古い無階級の氏族社会をほりくず
してこれをうちたおすものは、もっとも恥ずべき手段―窃盗、暴行、奸
計、裏切り、である。 (エンゲルス『家族、私有財産、国家の起源』)
ずいぶん口汚く罵倒されているが、もっとも大規模にもっともエゲツなくそれをやってのけた者が王権を確立して、衆上に平和と秩序をもたらせた。だから、正義の旗を掲げて覇権を確立した王権には、絶えざる戦乱と無際限の収奪に苦吟してきた民衆から一定の評価と支持は寄せられていたのである。そんな新しい支配者に抜け目なくすり寄ったバラモンは、さっそく因果応報と自業自得の論理を編みだして、その行為を倫理的に担保した。
暴力的略奪や海賊行為もだが、安く仕入れて高く売りつける商人の行為もまた、一般民衆の眼には不等価交換と映ったことだろう。しかし、遠隔地交易に従事する商人たちにいわせれば、彼らの商業利潤創出の源はふたつの価値体系間の差異、つまり異なる地域間の距離であり、それを埋める彼らの労苦であり、それぞれの地域では立派な等価交換なのである。
このように、この時代のインドは、人びとがてんでに己の善を主張し、他人の悪を非難しあう、まさに道徳的紊乱の時代であり、善・悪の観念の逆転など日常茶飯だった。だから、ブッダにとっては善も悪もあくまでも相対的なものにすぎない。いや、人間とはすべて善・悪の両面をあわせもつ、つねに小さな悪を犯さずしては生きていけない悲しい存在なのである。
そして、善も、また悪も、縁起によって生じる。だから、いかなる悪といえども、そこにいたった縁起を見ずして断罪も償いもできない。ブッダは、稀代の殺人鬼アングリマーラをさえ弟子にしているが、托鉢のつど民衆に石もて打たれて帰ってくる彼にたいして、ただ「耐えよ」とのみ諭したといわれる。