ブッダの研究者たちのあいだで、「ブッダの思想の根幹は縁起にある」ということについては争いはないが、では「縁起とは?」ということになると、これはもう百家争鳴である。ほんの「パティッチャ・サムッパーダ」の一語ながら、それだけ奥が深い思想だということだろう。
とりわけ主張が分かれるのは、そこに相依の思想を認めるかどうかについてである。しかし、縁起とは本来生滅に関する思想だから、時系列の流れを本質とする。しかし、相依を主張する側は、しばしばナーガルジュナの「空」の思想に結びつけようとする。ブッダが空を説かなかったのではない。
(ブッダが答えた)、つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち
破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることがで
きるであろう。このように世界を観ずする人を、(死の王は)見ること
がない。 (『スッタニパータ』)
ここにいう空とは、『ダンマパダ』におけるつぎの詩句から見て、「空っぽ」つまり「固定的な実体を欠く」という本義を表していると見ていいだろう。
世のなかは泡沫(うたかた)のごとしと見よ。世のなかはかげろうのご
としと見よ。世のなかをこのように観ずる人は、死王もかれを見ること
はない。
ところが、ここで縁起を空といい切ってしまったら、それは少し違うのではないか? 縁起するものはつねに生滅、変化する。しかし、「常住ではありえない」ということは、「それ自体を欠いている」というほとんど「無」に等しい空とは違う。ゼロは50にも、マイナス100にもなりうるからゼロなのであって、つねにゼロでありつづけるのなら、それはたんなる無でしかない。
縁起とは、あえて図式的に説明すれば、時系列の流れに沿って互いに照応反映しながら流れる無数の関係性の束である。その束をMRIでスキャンするように横断的に断ち割った断面について聞かれたら、これはもうゼロだと答えるしかないだろう。どのような方向性や可能性を内包しているかわからないからである。しかし、それではしょせんスタティックな説明にすぎない。縁起とは、もっとダイナミックな実践のための思想であるはずだ。
ましてや、自分とは、自分自身を欠いたヤワで、主体性のない存在ではない。ブッダは、入滅のまぎわまで、弟子たちに向かって「つとめよ」と叱咤激励しつづけたが、人間はそんな主体的な努力によってのみ、みずからの運命を切り拓いていくことができるのである。