バラモン教やキリスト教などの一神教のもとでの道徳的頽廃がいかにすさまじいものだったか……。ちなみに、いま古代インドの法律書『マヌの法典』をひも解いて、その条文を逆読みしながら、当時のインド人がどんなことをしていたかをご覧いただきたい。とりわけその第8章など、現代におけるほとんどすべての犯罪が網羅されている。また、ニーチェが「神は死んだ」と宣言する以前のヨーロッパは、それほど道徳的な社会だったか? とりわけ問題なのは、「最後の審判」を説いた当の教会がおこなった、十字軍による侵攻や異端尋問、魔女裁判、宗教戦争などによる悪逆非道である。
輪廻説を擁護する人は、「行為とその結果についての因果関係に責任をもつことで、人は倫理的な行為をなす」といわれる。「近年、わが国では、本能的な衝動に駆られた残虐な事件が頻発している」のは、明治以降、わが国で輪廻転生を信じない人が増えたことがその一因だという主張である。つまり、仏教が隆盛だった明治以前は、それは一定の影響力をもちえたということになる。その点、ベネディクト女史の意見はすこし違うようである。
このような哲学は日本には見られない。日本は一大仏教国であるに
かかわらず、いまだかって輪廻と涅槃の思想が、国民の仏教的信仰
の一部分となったことはない。これらの教えは、少数の僧侶たちが個
人的に受け容れることはあっても、民衆の風習や民衆の思想に影響
を及ぼしたことは一度もない。 『菊と刀』
輪廻転生にせよ、最後の審判にせよ、それを説く人の根底にあるのは「人間から倫理を抜き去ってしまえば、ただ本能に従うだけの動物にすぎない」とする人間不信である。だから、天国か地獄か、バラモンかシュードラか、という利益誘導と脅迫によってしか責任意識をもたせえないと考える。しかし、倫理とは、そんな目先の欲望や恐怖に訴えて無理やり善をなさしめるものだろうか? そもそも、「人間の本性は倫理的」と見るのも、逆に「人間は本能に生きる動物である」と断じるのも、いずれも偏見にすぎない。
とすると、縁起説とは、実にスケールの大きな、また恐ろしくシビアな倫理思想であるといえないだろうか! それケチな利益誘導や脅迫によって善をなさしめるのではない。いや、何が善で、何が悪かすらもいわない。
また、何をするも自由である。しかし、自由といえども無軌道ではない。いま、「いかに振舞うか」、「いかに生きるか」について、気の遠くなるほどの遠い過去からの、無量ともいえる因縁のもとに決断し、行動を起こすのだ。しかも、その結果は想像を絶する広がりをもって、久遠の未来にまで影響を及ぼしていく。そんなとき、人は、真に倫理的にならざるをえないのである。