このところ、いたいけな幼児や児童が殺害される事件が頻発している。愚妻などは内気で心優しい老女であるが、そんな事件が報道されるたびに、テレビの前で「シケー!」と絶叫している。ちかく一般人が無作為に選ばれて、刑事裁判に参加する「裁判員制度」とやらが発足するそうであるが、これではその運用が危ぶまれてならない。
ところが、彼女の希望に反して、わが国では犯人が未成年の場合、まず死刑にはならない。せいぜい4・5年もすれば、少年院から出てくる。山口県光市で夫の留守中、妻を陵辱して幼児とともに殺害し、金品を奪って逃走した18歳の少年に下された判決もまた無期だった。それでは、7年後にも仮釈放で出所してくる可能性が高い。それを見越した少年は、友人に宛てて被害者をあざ笑うがごとき手紙を送っている。夫は「それならいっそ無罪にして、自分の手の届くところに出してくれ。自分で殺す」といったそうである。
この場合、ブッダならどう裁くだろうか?
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みをもってしたならば、つい
に怨みの息むことがない。怨むを捨ててこそ息む。これは永遠の真理
である。 (『ダンマパダ』)
ハンムラビ法典の「目には目を」の条文は、過剰な復讐から犯人を守るためのものだったが、このブッダの言葉も誤解されているようだ。「殺すな、ただしよそ者は殺せ」、これが氏族共同体の掟だった。しかし、掟通りに犯人を殺したら、こんどはこちらが相手の一族からつけねらわれるはめになる。幕藩体制下のわが国では、仇を討たないかぎり家禄は召し上げられたままである。犯人の側でも、殺した理由がどうであれ、全国津々浦々を転々と逃げまわることになる。歳月は流れ、資金も底をつく。追われる側はもとより、追う側もまた地獄のような日々だったろう。
だから、このブッダの言葉は、被害者の側にも立った言葉なのである。絶対的な悪も存在しなければ、絶対的な善もまたありえない。では、この不条理の決着はどうつけてくれるのか? それについてもブッダは述べている。
「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟しよう。――この
ことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知っている
人々があれば、争いはしずまる。 (『承前』)
ちなみに、次に掲げるのは、今年の万能川柳年間大賞を受賞した今富一義さんの句である。「殺しあわなくとも、みんな死ぬものを――」。