歴史的実在が定かでないゆえか、概して物語風の仏伝にしか登場しない人物にデーヴァダッタがある。同じカピラヴァストゥの出身で、ブッダの従兄弟とされる。ところが、ブッダの前世物語『ジャータカ』などによると、彼はブッダ学派の分裂を企てて失敗するや、ブッダの殺害を図った極悪人とされている。もとよりブッダは「超能力を発揮して」ことごとくそれらの企みを粉砕し、敗れたデーヴァダッタは地獄に落ちたと伝えられている。
ことの発端は、デーヴァダッタによる「五事」の提案だった。それは①林間にあって、②屋内に住まず、③食事は乞食によるのみ、④魚肉を食らわず、⑤身にはボロ布をまとう、からなる苦行による修養である。ブッダもそうしてきたし、弟子たちもそれに倣い、したがってブッダのサンガではそれがきまりだった。ところが、学勢が伸張してサンガが肥大すると、秩序が弛緩して、それらが次第に行われなくなっていたのである。
そんな風潮を苦々しく思う弟子たちも多かったとみえ、ブッダの留守中
デーヴァダッタが賛同を募ると、われもわれもと算木をとって加担した。とこ
ろが、知らせを受けたブッダがとった行動は意外なものだった。急遽腹心
のアーナンダを派遣して、翻意させてしまったのである。哀れをとどめたのは、二階に放りあげられたままハシゴをはずされたデーヴァダッタだった。
彼の弟子、カタモーラ・ティッサカは「仏は何ぞもって妬む心を生じ給うや」と憤激したが、デーヴァダッタ自身も「なぜだ!」という思いだっただろう。
そんな苦行主義への回帰の試みは、その後も繰りかえされる。ブッダの入滅後、そのあとを襲ったマハーカッサパは、さらに徹底した十三項目の遵守を求めたた。たとえば、墓場で寝るとか、つねに座ったままで横臥しないとかである。後世の仏教教団における「根本分裂」の動機となったのも、「十事の非法」をめぐる対立だった。このとき興味深いのは、「僧侶が金銭を手にしていいかどうか」についての争いだった。もしそれを許さんか、商人出身の商才にたけた連中が、修行など放り出してゼニ儲けに出精することが懸念されたのである。案の定、王権による庇護と並んで、壮大な仏教僧院の財政を支える一方の柱となったのは教団による金融業経営だった。
ブッダは苦行を捨てたといわれる。宗教も思想も未分化だった当時のインドにおいて、唯一思想体系として確立していたバラモン勢力に立ち向かったのは、樹木や竜にたいする呪術的信仰から、萌芽的な唯物論にいたる幅ひろい勢力だった。パクダ・カッチャーヤナのような先鋭な思想家もいたが、なかにはオカルトに狂うヒッピーもいる。修養の手段としても、知慧を磨く思索より、いまだにヨーガや苦行が重用されていた。
そんな時代の急激な転換期において、ブッダの目覚しい成長に遅れをとってしまった弟子たちの悲劇、それが「デーヴァダッタ事件」だったのである。