「悟り」の関門を設けて信者をきびしく選別した仏教が、「世界の四大宗教」といわれるほどの隆盛を実現しえたのはなぜか?
宗教社会学の地平を拓いた碩学のマックス・ウェーバーによれば、それがすぐれて「現世快楽的」だったからということになる。およそ、大宗教たりうるには、まず教義においてすぐれていなければならない。その点、ウェー
バーによれば、仏教が掲げた「輪廻転生の論理」は、さまざまな神義論のうちもっとも考え抜かれたものだそうである。
また多くの信者に支持されることもだが、現世肯定の教義をもって営利を是認し、権力や経済力にたいして融和的であることもその理由である。仏教が国権によって迫害されたのは、シナの武帝や武宗による廃仏や破仏、わが国の日蓮の法難や明治の廃仏毀釈くらいであり、その責めは多分に仏教側も負うべきだった。逆にいえば、仏教は伝統主義を破壊して、合理的な行動原理を生み出すことができないまま、民衆をふたたび迷妄の闇に引き戻したともいえる。ウェーバーはそれを「大乗仏教は世界を呪術の闇に変貌させた」という。法語を唱えてホトケの加護を願う「呪願」などは、バラモンの祭儀における祈祷そのものである。
インドにおいては、原始的氏族共同体が解体しても古典的な奴隷制に移行することなく、共同体的遺制を色濃く残した村落隷属民、つまりカーストが成立した。王権はそれを自身の経済的基礎にすえたのである。そんな共同体の中核階層がヴァイシャやシュードラであり、そのうちの農民をヒンズー教が、商人をジャイナ教が組織した。そのとき、「支配者的戦士層から身分的・階級的に脱落した知識人層からなる菩薩たち」はどうしていたのか?
それについてウェーバーは、「(乞食や布施中心の)原始的修道僧共同態から領主的な修道院荘園制」への移行を指摘している。つまりは広大な僧院の奥深くひねもすスコラ的議論に明け暮れていたのである。あれほど重んじられた「知慧」が忘れられ、土着信仰と習合しながら呪術の体系化がすすむと、いまや誰はばかることなく「輪廻転生」を説くことができる。神格化の対象も、ブッダから毘盧遮那仏やヒンズー系の異教神へ移っていく。
そんな仏教に関してブッダに責任はないのか? もとよりブッダは仏教の開祖ではないが、彼の神格化に手をそめて開教への道を拓いたのはその弟子たちであり、「縁起」に代わる「空」の教義を開発して理論的支柱となったのが「八宗の祖」龍樹菩薩、ナーガルジュナその人である。
そして、おなじみの「王宮・美女伝説」に彩られた、カピラ城の白皙の王子、ゴータマ・シッダールタはこのころ生まれたのかもしれない。その陰でしずかに姿を消していったのが、古代インドにおける自由で合理的な商業資本主義のエートスを体現した「荷車を曳くブッダ」だったのである。