盆・暮れ恒例の「民族大移動」がはじまったのは、戦後の農地改革による自作農の普及と人口の都市集中による家族制度の解体以降のことである。そんな帰省風景を見ていると、手土産ひとつの安上がりのレジャーということもあるが、みんな嬉々としている。また、都会の酒場などで話題がそれぞれの郷里に及ぶと、酔客が懐旧の情に目を潤ませたりする。
しかし、戦前の寄生地主制度と家族制度のもとでの農村の光景は、よほど違ったものだった。地租、地代のほかに血税つまり徴兵によって一家の大黒柱を奪われたうえ、ひとたび凶作ともなると娘の身売りでしのぐほかない。こうなると、よりましな不幸に喜びを求めて「隣の不幸は蜜の味」となり、地主・小作の階層対立が先鋭化して、「やれうれし、隣の蔵が売られゆく」となる。だからこそ、「故郷は遠きにありて憶うもの」だったのである。
古代インドでは、人びとは三世代にわたる複合家族(グリハ)が集まった氏族(ヴィシュ)を中心とした、血縁的共同体のなかで生きてきた。そして、いくつかの氏族を統括する上位集団である部族(ジャナ)を単位として、一ヵ所に定住するようになる。それがラーマと呼ばれる地縁的共同体である。
そんな村落共同体では、土地などの生産手段は構成員の共同所有であり、生産物もすべて平等に分配されていた。というより、村の掟(マナ)を
守って、みんなが等しく分かちあわねば生きていけないきびしい時代だった。ところが、やがてそんな共同体に変化が生じはじめる。
氏族共同体は、閉鎖的で特権的な団体として、これらの大衆に対立し
ていた。原始的な原生的民主制は、いとうべき貴族性に転化してい
た。――その全体的な経済的生活条件のおかげで、自由人と奴隷、搾
取する富者と搾取される貧者とに分裂しないではおれなかった社会、こ
れらの対立をふたたび和解させえなかったばかりか、ますますこれを激
化しないではおれなかった社会であった。
(エンゲルス『家族,私有財産および国家の起源』)
貧しくはあっても、互いに助けあって仲良く暮らしていた村落共同体が崩壊して、村びとたちは支配する側とされる側、搾取する側とされる側へと分かれていく。肩を寄せあって収穫の祭りを楽しんだ牧歌的な村が、憎しみと争いが渦巻く忌むべき煉獄となった。北岸のアーリア人の発明になるヴァルナと呼ばれる階層制度が案外すんなりと南岸に浸透していったのは、それが支配や収奪を補強する手段として効果的だったからである。
「カピラ城」、カピラヴァストゥがそんな激動のさなかにあったとき、一族の長「浄飯王」、スッドーダナの長子として「王子」ブッダが誕生したのである。