ブッダは、ラージャーヤタナ(菩提樹)の樹の下で悟りをひらいた後、場所を替えてふたたび瞑想にふけっていた。そのとき、心中に次のような考えがきざした。
わたしのさとったこの真理は深遠で、見がたく、難解であり、しずまり、
絶妙であり、思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところで
ある。ところがこの世の人々は、執著のこだわりを楽しみ、執著のこだ
わりに耽り、執著のこだわりを嬉しがっている。さて執著のこだわりを楽
しみ、執著のこだわりに耽り、執著のこだわりを嬉しがっている人びと
には、(これを条件としてかれがあるということ)すなわち縁起という道
理は見がたい。またすべての形成作用のしずまること、すべての執著
を捨て去ること、妄執の消滅、貪欲を離れること、止滅、やすらぎ(ニ
ルバーナ)というこの道理もまた見がたい。だから、わたくしが理法
(教へ)を説いたとしても、もしも他の人々がわたくしのいうことを理解し
てくれなければ、わたくしには疲労が残るだけだ。わたくしには憂慮が
あるだけだ。 (『律蔵』)
このようにして、せっかくひらいた悟りをひろく開示することなく、ひとり胸にしまっておこうとする。そのとき、世界の主・梵天が現れて、ブッダに向かって合掌・敬礼して「ひろく教えを説いてほしい」と懇請する。有名な「梵天勧請」のエピソードである。結局ブッダはその願いを容れるのだが、なぜひとたびは説法を断念したのだろうか?
大事を成した後のアンニュイのせいだとか、値打ちをつけるための仏教徒による粉飾だとか、はたまた執著を滅却することの困難を知るゆえだとか忖度されている。己の思想の難解さを自覚するブッダ自身は、「この教えは知者に属するものであって、愚者に属せず」ときびしく弟子を限定しようとしたが、怒涛のような教勢拡大の前にそんな努力は雲散霧消してしまう。
人はこういうときの直感を大切にしなければならないようである。果たせるかな、縁起という「見がたい」思想を教義とし、悟りという「達しがたい」目標を掲げて仏教が開教された結果、世界の三大宗教といいながら、いったい信者の何人がその教義を理解し、何人が悟りをひらいているだろうか?
その結果、悟りは神秘的な秘儀となって、まじめな修行者をさんざ苦しめ、そんな教義の不透明さに乗じて、呪術にたけた二級バラモンや、オカルトに狂うヒッピーどもが乱入してくるのを防げなかった。いまなお仏教界に「仏教とは無じゃよ」とだけしかいえない高僧や、呪文にひとしい読経で衆をまどわす怪僧が絶えないのもそのせいなのである。