カール・マルクスとゴータマ・ブッダ。生きた時代も違えば遺した業績も異なる、一見無縁に思える二人だが、不思議に共通するところが多い。マルクスは階級支配からの解放、ブッダは輪廻転生からの解脱と、掲げた目標こそ違え、めざすところはいずれも民衆=一切衆生の救済にあった。そのために二人は現世=資本主義社会を仔細に観照=分析して、時空を貫徹する客観的法則、一方は唯物弁証法、他方は縁起の理法を定立した。
マルクスは、その主著『資本論』において、まず商品の分析から入って、その交換過程に注目した。ブッダの時代の共同体的人間にとって、新しく登場した商品やその交換過程ほど奇異で、驚きに満ちた存在はなかっただろう。共同体とは、永遠に停滞することを宿命づけられた静態的世界であるが、市場はつねに転変流動してやまない動態的世界である。
ゲーザ・サモンは「循環する時間の牽引力は、歴史全体を通じて多くの文明でずっと強かった。(中略)どうにかして循環する時間という罠から解放されたのは、西洋文明だけである」と胸を張った。たしかにアウグスティヌスは、インドやギリシャの円環的時間観念から脱して直線的な時間論を創出した。しかし、それとてアダムとイブに発して、最後の審判にいたる限定的な時間にすぎない。だからこそ、「神は天地を創る以前は何をしていたのか?」という、マニ教徒による反論を前に沈黙せざるをえなかった。
しかし、過去、現在、未来と、不可逆的かつ無限につづく直線的時間を着想するということが、それほど大層なことだろうか? たとえひとときでもヴァイシャーリーのバザールや洛陽の西市の雑踏のなかに突っ立って、とめどない商品と貨幣の流れを眺めておれば、そんなことは心底から納得できることだからである。ただ、ブッダの偉大さは、それを「無始無終」の観念に終わらせず、「諸行無常」の思想にまで高めたことである。
「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧を
もって観るとき、人は苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかに
なる道である。 (『スッタニパータ』)
現象世界はつねに変化してやまない。その変化をシカと見定め、変化に柔軟に対応できるもののみが、自由かつ安楽に生きることができる。このように見るとき、「諸行無常」には、通常受けとめられているような日本的優情にねざした「もののあわれ」などとはまったく無縁である。それどころか、実にダイナミックで行動的な思想であることが理解されるだろう。もっとも、未来を現状の延長線上でしか見ない、また得意の絶頂にあって「時よ、とまれ」と叫びたい向きには、かなりきびしい警告を意味する言葉ではあるが……。