2005年が「戦後60年」にあたるとかで、このところさまざまにさきの大戦が回顧されているが、意外に知られていないのが戦中の庶民の生活感情である。もはやそれを知る者が少なくなったということもあるが、あまり日常的すぎて、記録に残らなかったということもある。
ひとことで言って、明るかった。それも空の底が抜けたような明るさである。もちろん連日連夜の空襲で人びとは疲労困憊していたし、焼け跡にころがる死体ももはや見慣れた光景になっていた。なによりも、飢えていた。配給制度がもはや機能しなくなっていたからである。にもかかわらず、明る
かったというのは、みんなが貧しく、ひとしく飢えていたからである。
敗戦をさかいに、世の中からそんな明るさがかき消えた。人びとは、隠匿物資を抱えこんだ旧軍人や統制官僚、彼らに群がる闇商人たちと、引揚者や戦没遺族、戦争孤児らをはじめとする一般大衆とに分断されることになったからである。それまで人びとが抱いてきたのは、一椀の雑炊にありつきたい、再生ゴムを貼りつけたズック靴がほしい、せめて夜露をしのぐバラックに住みたいという、ぎりぎりの生存をかけた欲望だった。
人は、ひとしく不幸ならば極限状況にも耐えることができる。東北の水飲み百姓出身の二等兵にとって、連日凄惨なリンチに見舞われようとも、軍隊は天国だった。三食メシにありつけるし、新兵はみなそうだからである。
ところが、飢えと寒さに呻吟する人びとを尻目に、純毛のコートを羽織って銀シャリを飽食し、進駐軍払い下げのラッキーストライクをふかす隣人が現れたのである。新円をもたない身にはあこがれでしかない食物や衣料があふれた闇市を、あてもなく彷徨する人びとの眼は欲望にギラギラと燃えていた。それは、これまでのたんなる生存欲とはまったく異質な欲望だった。
それまで、人びとの心の奥深く眠っていたそんな欲望をはじめて発見したのは、またもやおなじみのヤージュニャヴァルキャである。
また次のようにも語られている、この世の人間は欲望よりなる、と。彼
がある欲望をもてば、彼はそれを意欲するものとなり、ある意欲を持て
ば、彼はそれを行為として行う。ある行為を行えば、彼はその行為に
対応したものとなる。 (『プリハッド・アラーニアカ・ウパニシャッド』)
支配階級であるアーリア民族の聖典『ヴェーダ』では、欲望こそが行為の原動力なのだと高らかに宣言されている。ひとしく充足機会が存在する時代や社会では、ウォンツやニーズは肯定的にとらえられる。しかし、このときその一方で、一切衆生が未来永劫満たされることのない欲望にさいなまれながら、救済のときを待ってもがき苦しんでいたのである。