いまクリスマスとあって、巷ではきらびやかな発光ダイオードのツリーを飾りつけて、さかんに商戦を盛りあげている。このようにさまざまな手段によって消費者の欲望を喚起することをデマンド・クリエーションというが、フィリップ・ゴトラー教授によると、人間の欲望には三種あるそうである。
まず第一が「ニーズ」。つまり、食欲とか性欲といった万人が本来もっている生理的欲望であり、これがなければ生命を維持することができない。ところが、古代資本主義社会にいたると、人為的に欲望を触発しようとする。それが第二の「ウオンツ」である。焼きたての香ばしいパンにホットでジュー
シーなビーフをはさんだハンバークを開発するなどがそれである。かくして、商品が登場した。ブッダは、ちょっと風変わりな商品を列挙している。
ひとが、田畑・宅地・黄金・牛馬・奴婢・傭人・婦女・親族・その他いろ
いろの欲望を貪り求めると、無力のように見えるもの(諸々の欲望)が
かれにうち勝ち、危うい災難がかれをふみにじる。
それ故に苦しみがかれにつき従う。あたかも壊れた舟に水が浸入する
ように。 (『スッタニパータ』)
これまで共有だった田畑や宅地、牛馬のみならず、人間までもが商品化されることになった。上記にいう奴婢や傭人とは奴隷や隷属民、婦女はブッダに帰依したアンバパーリーのような遊女を意味するが、親族までもがカネしだいで離合集散したのだろう。田畑を奪われる嘆き、「隣の芝生」にたいするやつかみ、遊女におぼれて身を持ち崩していく嘆きなど、これまで存在しなかった苦しみ、渇愛や煩悩が人びとの心を切りさいなみはじめた。
そして、いまわれわれの煩悩をかきたてているのが、第三の欲望であるといわれる。第一の欲望は欠乏に由来し、第二のそれは触発によるが、いずれもモノであることに変わりはない。ところが第三のそれは記号による、つまり「消費することによって他者から承認されたいという欲望」である。
ブッダは華やかだった青年時代を回顧して「わたくしはカーシー(ヴァラーナシー)産の栴檀香以外は決して用いなかった。わたくしの被服はカーシー産のものであった。内衣はカーシー産のものであった」と誇らしげに語っているが、これはたんなる豊かさの誇示ではなく、いまでいうブランド自慢なのである。 だから、記号による消費は、すでに古代資本主義社会に存在した。
ブランド商品もだが、記号といえども多かれ少なかれモノと化体している。これからもかぎりなくモノ離れしていくだろうが、かといってモノとしての本質を失うことはありえない。ゆきすぎた情報化社会論にまどわされて、商品としての本質、資本主義としての本質を見失ってしまってはならないだろう。