縁起を見出したのはブッダであるが、それをいまのようなかたちに整備し、体系化したのは、「ブッダ」たちの功績である。もっとも、「十二支縁起」のごとき壮大な因縁話に仕立てあげたのも彼らの仕業であるが……。
「如来は因を説きたまう」、つまり「ものごとにはかならず原因がある」と
いってみても、そんなことは証明のしようがない。「生によって、老死がある」というが、地球上に誕生した原生的な微生物の一種が、深海か地中のどこかでいまだに休眠状態のまま生き続けているかもしれないのである。
縁起がわれわれにとって意味をもつのは、その「因」と「果」のあいだに「縁」を介在させたからである。そうすることによって、因果関係を超能力者の手から解き放つことに成功した。死ぬことを思えばだれだって恐ろしい。しかし、諸行の無常であることを識って、生にたいする執着を捨てされば、死もまたその意味を喪う。つまり、「不死」となる。もはや死が意味をもたなく
なった者にとって、再死も、再生も、つまり輪廻転生などありえない。
縁起がしばしば誤解されるのは、「種を蒔けば、芽が出る」などと、単純な因果関係として理解するからである。このような農民的理解によれば、運命は必然であり、輪廻は不可避となる。しかし、丹精して蒔いた種だって、さまざまな関係性のしがらみによって、芽が出ないことだってありうるではないか。そんな種を絶対視して、しがみついているから、芽が出ないことに苦しみ、芽が出たのちも枯れはしないかと恐れていなければならないのだ。
彼らにとって「ご縁」とは、「いただく」ものであり、「悪縁」にもひたすら耐えるのみである。そして、みずからも「生かされている」と観じて、必要な主体的努力をつくそうとはしない。この場合、関係性といっても、たんなるシンセサイズ(結合)としてしか理解されていない。
それにたいして、カピラ産の米がカーシー産の布となるのは、その間に貨幣という虚構が介在するからである。この場合には、市場という人為的条件がものをいう余地が存在する。つまり、運命といえども、かならずしも宿命ではない。そんな縁起の世界では、絶対的価値などありえない。価値は、売買がかろうじて均衡して成立するところに決まる。買い手がつかなければ、商品が朽敗して、文字通りゼロになってしまうことだってありうるからだ。
このような商人的発想のもとでは、世界は緊密なネットワークで結ばれており、知慧――情報と処理能力こそが価値を生む。だから、知慧ある者に
とっては、いたるところチャンスのある世界である。そこでの関係性はインテグレートによる創造的な縁であり、異質のものを統合的に結びつけるから
新しい価値を生む。生あるものは必ず死ぬ。それはそうかも知れないが、黒澤明が映画『生きる』で描いたように、人は、よりよく生きることによって、価値ある死をも創造することができるのである。