学問を進歩させる動機のひとつに論争がある。経済政策の是非をめぐって、古典派とケインジアンが火花を散らすなかで発展してきた経済学などがそうであるが、ブッダをめぐる論争においてそれほど実りが多くないのは、とかく双方の主張が噛みあわないからである。たとえば、ずいぶん古くから戦わされてきた論争に「無我か、非我か」というのがある。
要するに、ブッダは「我は存在しない」といったのか、それとも「(それは)我ではない」といったのかという問題である。前者が「最初期の韻文経典でも、無我はさかんに説かれている」と主張すれば、後者は「ブッダは五薀(人間の肉体と精神を構成する五つの要素)のいずれをとっても無常であるから、常住の『我ではない』といっているだけだ」と反論する。
問題を混乱させているのは、無我を主張する側において、その無にナーガルジュナが説く「空」の意味をかぶせて、「自己は存在しない」という主張にすりかえたがるからである。しかし、ブッダは「自己に固執する見解を打ち破」れとは説いたが、自己そのものは否定していない。それどころか、最後の旅において、とりすがる弟子たちに向かって、次のように説いている。
それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたより
とせず、法を鳥とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせ
ずにあれ。 (『大パリニッバーナ経』)
一方、非我とする側にも問題はある。たしかに、ブッダはアートマンの存否についての判断を停止しているが、彼の輪廻説に対する言説をふくむ全体の文脈からいって、そこに消極的否定の意味あいを強くにじませていることは明らかである。ところが、インド思想の研究者にとって輪廻説はずいぶん魅力的な思想であるらしく、心情的には否定しづらいようである。とはいえ、ウパニシャッドそのままに輪廻主体がアートマンだともいえない。
そこで思いついたのが、いま流行のDNAである。遺伝子とDNAとでは少し意味が違うようだが、この場合の輪廻とは、人間に限定した再生をいうらしい。輪廻説もごく初期には父子の間の相続転生を認めたが、五火説以降の輪廻説では犬や豚にも生まれ変わるし、虫けらにもなる。
ブッダは『大縁経』とやらで遺伝主体を「識」と説明したそうだが、不肖の「ブッダ」の責まで負わされてはブッダもご苦労なことだ。それなら、「親の意識が子に報い」ということにでもなるのだろうか? しかし、意識は、五薀のなかでも、もっとも環境や条件の影響を受けやすい部類に属するはずである。現に、現代科学は遺伝を認めているが、そのときにも遺伝子は、情報を運ぶだけでなしに、経験にも反応するとしているのである。