このころ北インドでは、第二次農業革命ともいうべき熱狂の渦中にあった。これまでの鋤棒に代わる牛犂の開発によって、農業の生産性が飛躍的に向上したからである。しかし、経済の高度成長を実現するには、人びとの精神を目標に向けて組織するとともに、新技術の開発や生産性の向上を動機づける新しいイデオロギーが必要である。成長の原動力となるのは人間であり、人間を奮い立たせるのは人間精神であるからだ。
ところが、当時の支配層だったバラモンは、貴重な生産手段である牛を供犠に求める火神アグニの祭祀に酔いしれていた。そんなバラモンにとって代わるべく、サマナと呼ばれる多くの思想家が登場した。彼らは、理性に
よって呪術の闇を切り裂くとともに、四姓制度の虚妄を打破して、人びとを
カーストの抑圧から解放すべく新しい世界観を提示して見せたのである。
それだけではない。経済成長によって人びとは空前の豊かさを手にしながらも、そこでいかに生きるべきかがわからなかった。それについても、ブッダはきびしく自覚を促している。
己は財豊かであるのに、年老いておとろえた母や父を養わない人、――
かれを賎しい人であると知れ。証人として尋ねられているときに、自分の
ため、また財のために、偽りを語る人、――かれを賎しい人であると知
れ。
或いは暴力を用い、或いは相愛して親族または友人の妻と交わる
人、――かれを賎しい人であると知れ。
この世で迷妄に覆われ、僅かな物が欲しくて、事実でないことを語る
人、――かれを賎しい人であると知れ。
自分をほめたたえ、他人を軽蔑し、みずからの慢心のために卑しくなっ
た人、――かれを賎しい人であると知れ。 (『スッタニパータ』)
戦後わが国の高度成長をリードしたのは、民主主義や自由主義を至高とする価値観であり、その集約的表現が新憲法だった。そこで生まれた平等意識が階層間や企業間の競争を生み、闊達な企業家精神が民生産業への資本と技術の集中的投下を実現して、世界第二の経済大国となった。にもかかわらず、いまいたずらに混迷を重ねている。そんなわれわれの胸にも痛切に響いてくる言葉ばかりだ。だから「失われた10年」は、断じて長期不況の結果などではない。その前に、政治・経済倫理の喪失や人心の荒廃に見るように、人間精神そのものがすでに朽敗してしまっていたのである。
ところが、古代インドの経済成長はその後200年あまりもつづいて、紀元前3世紀のマウリア朝のころには世界一の大国といわれるまでになった。