一人息子を失って2年が過ぎた。時とともに悲しみは薄れるというが、
悲しみは形を変え、深く重く鋭く迫って耐え難い。思い出に頼り、切れそう
な気持ちをかろうじてつないでいる――。
この世は不条理で、理不尽で、やり場のない悲しみと苦しみに満ち満ち
ている。――私はこれから先、どんな景色の中を歩まされるのかわからな
いが、逆らうこともうらむこともしない。
命をお返しする日まで、耐える力を与えてほしい。
(58歳 主婦 毎日新聞『女の気持ち』)
最愛のわが子を失った母の、痛切な悲しみがそくそくと伝わってくる。これほどの悲しみに対して慰める言葉を知らない。では、「専門家」ならどうか?
葬儀の日、出棺に際し私は会葬者の皆様にお礼の言葉を述べるはめに
なった。そこに言葉を失った自分がいた。――諸行は無常(無情、非情)と理解しつつも、割り切れぬ澱のようなものが私の心中に沈殿している。こ
んないいやつが、善意の塊のような男が、なんで不慮の死にあわねばな
らないのだ、と。「無常の世を超え、執着を断つことが、苦しみを滅したさと
りの境地である」とさとりすました気分にはなれないのである。
(及川真介『「諸行無常」考』)
そして、これが僧職にある高名な仏教学者という、立派過ぎるほどの専門家の文章である。それでも、檀家の人びとが相手ならば、心情を込め、言葉をつくして慰められるのだろう。ところが、当事者となればこの通りである。にもかかわらず、専門家としてまさに不用意というほかないこの文章がわれわれの胸をうつのは、どうしてなのだろうか?
ナイランジャナー河のほとり、アシュヴァッタ樹の下で悟りをひらいたブッダは、ひとたびはそれを人々に説くことを断念しようとした。それが「深遠で、見がたく、難解」であることもだが、いまひとつ、まずそれを説く側において、人と人の世にたいする執着を断つ非情に徹することが必要だからだ。
しかし、人を救うには、相手の悲しみや苦しみをわがものとして共感するのでなければならない。人の情けも解せぬのでは、相手も心を開かない。
専門家には、そんな絶対矛盾ともいうべき二つながらの能力が求められているのである。とりわけ大切なのは共感能力である。黙って相手の手を
とって、ともに泣くだけでも癒されることがあるからだ。
というわけで、遠からず常円寺において、本山日本寺の貫主でもある及川師の、情理をつくした説教を拝聴できる日がくるはずである。